筆者の出身地・函館もかなりご紹介してきましたが、歴史マニアにはまだまだ、面白い史跡などがあります。実は、まさに函館観光の中心でもある五稜郭以外に、「四稜郭」があるのです。そのほか、北海道では有名なアイヌの方々と和人の争いの場となった史跡もあり、今回はそんな歴史好きに贈る、函館のマニアックな史跡を紹介したいと思います!
五稜郭の防備のために築かれた「四稜郭」
旧幕府脱走軍の最後の地となり、新撰組の土方歳三も最後を遂げた箱館戦争の終焉の地となった五稜郭。今は市民公園となり五稜の星型の城として、そして春は北海道有数の花見の名所としてあまりにも有名です。しかし、実は箱館戦争の舞台には「四稜郭」があったのをご存知でしょうか?
四稜郭は五稜郭から北東へ3キロほどの緩斜面地帯にあります。周囲は森林や原野となり、晴れた日は函館市内全体が見渡せます。
明治2年(1869年)春、五稜郭に立てこもる旧幕府脱走軍は新政府軍の攻撃に備え、各地に防御陣地(台場)を築きます。四稜郭は五稜郭の背後を防備するため、様式の台場を築造します。四稜郭は真上から見ると蝶が羽を広げた形の稜塁で、周囲に高さ3mほどの土塁と空壕を巡らし、四隅に大砲の台座を築きました。
大鳥圭介が設計したと言われており、旧幕府軍の兵200人と地元民100人の突貫工事で数日のうちに完成させたそうです。
冬の写真なので、雪のため形はわかりにくいと思いますが、四隅は大砲を備えやすいように斜面になっています。郭内の面積は2300㎡で、建物は建造しませんでした。ちなみに五稜郭は12万㎡なので約45分の1程度の大きさです。
新政府軍の攻撃により数時間で退却
外側からの写真を見ると角型になっているのがわかると思います。明治2年5月11日に新政府軍は箱館へ総攻撃を開始。四稜郭も岡山藩、徳山藩、福山藩に攻撃を受けます。松岡四郎次郎率いる旧幕府脱走軍は必死に防戦しますが、長州藩が四稜郭と五稜郭の中間にある権現台場を占領。孤立を恐れた四稜郭の旧幕府軍は五稜郭へ退却しました。防戦は数時間、建造からの陥落は2、3週間という短命の台場でした。
その後四稜郭は、荒廃が進んでいましたが、昭和9年に国の史跡に指定され、今日まで原形をとどめており、昭和44~47年度には土塁などの修復など環境整備を行います。元々。周囲に何もない土地でしたが、平成2年度には東屋やベンチを設置し公園化され、市民の憩いの場にもなっています。外郭を1周しても15分ほどの小さな台場で、日の目を浴びない史跡ですが、幕末好きな方はぜひ訪れてみてほしい場所です。春先などはエゾヤマザクラなどが咲いていて綺麗ですよ。人も少なく、ホッとできる場所です。
箱館戦争当時の土塁が残る権現台場跡
前述した権現台場跡ですが、かつては旧東照宮でした。1864年、五稜郭を完成した時、鬼門(東北)の守護神にするため東照大権現を分霊して建築。現在は神山神社になっています。
当地は四稜郭と五稜郭の重要な結節点となるため砲台を設置し権現台場と名付けられます。今でも写真のように神社裏の部分に当時築いた土塁の一部がそのまま残っています。また、ここの大鳥居は五稜郭の石垣や激戦地となった弁天台場の石垣を築いた石工が築造したものです。
戦争当時、新政府軍の攻撃に見舞われたもののそのまま残っています。鳥居を見回すと、弾痕らしきものの跡が見受けられます。同所は住宅地の中なので、元市民の筆者でも見つけるのに難儀した場所ですが、マニアックな方は探してみては?
14世紀に蝦夷地に渡来した和人の館「志苔館跡」
明治に北海道と名が変わるまで、北海道は蝦夷地として辺境の地であり、アイヌ人が先住民族で、正式な日本の領土ではありませんでした。北海道に和人(本州以南の日本人)が移住してきたのは南北朝時代と言われています。南朝の後醍醐天皇、北朝を率いる足利尊氏の戦乱は長く続き、その戦いに敗れ南朝の武士たちが、青森県の津軽方面や下北半島から逃れて蝦夷地に渡来、南北海道(道南)地方に館を築いたと言われています。松前藩の記録によれば、室町時代、道南には12の和人の館があり、その中で最も東端に位置するのが、紹介する志苔館(しのりだて)跡です。同館には小林太郎左衛門良景が居住していたと伝えられています。
同館跡は函館中心部から約9㎞の標高25mの海岸そばの丘陵部に位置しています。函館空港の滑走路や管制塔もすぐ内陸側にあり、海側は志海苔漁港、そして下北半島が見渡せます。また、函館市街や函館山も一望でき、景観も素晴らしい場所で、磯の匂い漂う空気も心地よいです。実は景観としても隠れた名スポットだと筆者は思っています。夏場は昆布の匂いも漂ってきます。
高さ2~4m、幅10~15mの土塁で囲まれ、外側には壕が巡らされています。東西約80m、南北約65mで約4,100㎡の広さがあります。
小さな山城のようで、昭和9年に史跡として指定され、昭和58年から同62年にかけ同史跡の遺構整備作業を行い、調査結果に基づき、遺構の復元、整備を行っているので、史跡を回っても、どこに何があったのか、分かるようになっています。
1968年には38万枚という大量の古銭が入った甕が出土しており、国の重要文化財として市立函館博物館に展示されています。
アイヌと和人の戦い「コシャマインの乱」
特に、この史跡が知られているのは、「コシャマインの乱」というアイヌ人の蜂起による和人との大規模な争乱の戦端となった悲しい記録があるからです。日高地方のアイヌ人の蜂起「シャクシャインの乱」とともに道産子は学習する機会もありますが、全国的にはまったく知られていませんのでごく簡単に説明します。
蝦夷地に渡ってきた和人は、安東氏が道南を統治する形になりアイヌの人々と交易を始め支配下に置こうとします。金銭の概念がなく、口語であり文字がないアイヌ語を使うアイヌの人々は和人に不平等な交易を余儀なくされていました。康正2年(1456年)、和人の横暴に、渡島アイヌの首領のひとりであるコシャマインが志海苔付近で蜂起。冬を越えた翌長禄元年(1457年)4月に同館を攻め落とし、その後、道南一体が戦場となる大乱となります。同年6月にコシャマインが討たれて戦いは収束します。しかし、アイヌ人々の蜂起は収まらず、永正9年(1511年)4月にもアイヌ人の蜂起があり、志苔館はついに陥落、館主の小林彌太郎良定が討死したと言われています。江戸期からは小林氏が松前藩傘下に入り、同館は廃館となりました。
このような話を知れば、歴史好きの方は興味を持ってもらえるでしょう。日本人は多様性があり、決して単一民族ではないと個人的には思います。史跡好きの方はもちろん、景観も抜群ですので、撮影スポットとしてもお勧めです。函館空港もすぐそばなので、飛行機で来られた方は気軽に訪れて観てはいかがでしょうか?ちなみに、今回紹介したスポットは観光地としてはマニアックなので、グルメなどのお店はありませんので、あしからず。
函館近海はコクガンの越冬地
また、この志海苔町近辺も含め、函館近海はコクガンの越冬地として知られています。北海道ではマガンの越冬地として美唄の宮島沼が有名です。コクガンはマガンより小型で頭部から首、背、胸にかけて黒褐色でのどには白いマフラーを巻いたような模様が特徴です。北海道へのマガンの飛来数は5万羽を越えると言われますが、コクガンは約1000羽、そのうち函館には毎年約500~700羽の飛来が確認されています。マガンより絶滅の可能性が高い「絶滅危惧Ⅱ類」に指定され国の天然記念物に指定されています。
コクガンは警戒心が強いため中々近寄れません。1月に望遠レンズで志海苔町近辺の海岸で何とか撮影することができました。簡単には出会えませんが、同館跡は海岸のすぐそばにあるので、冬はコクガンの観察をしても良いでしょう
まとめ
今回は、まず普通の観光客の方なら訪れない場所を紹介しています。しかし、四稜郭は幕末や新撰組好き、志苔館跡は、本州以西の人々が知ることのないアイヌと和人の悲しい歴史が詰まっています。同館跡には、コシャマインの乱などで亡くなったアイヌ人と和人を鎮撫する祠(ほこら)があり、毎年7月22日に例大祭が行われています。どちらも興味がある方は訪れてみる価値はあるスポットだと思います。
▽スポット情報
四稜郭
住所:北海道函館市陣川町59
TEL:0138-27-3333(函館市元町観光案内所)
志苔舘跡
住所:北海道函館市志海苔町
TEL:0138-27-3333(同上)
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