明治維新以降、昭和30年代まで日本の産業近代化を支えたのが「石炭」でした。なかでも石炭資源開発の中心地だったのが北海道の空知地方でした。炭鉱で栄えたそれぞれの街は炭鉱閉山以降の人口激減で過疎化が激しいですが、その炭鉱関連の建築物などを「炭鉱遺産」として観光で売り出そうとしています。北海道の近代史を彩った炭鉱遺産を巡ってみました。
「炭鉱の記憶」として町おこしに活用
かつては黒いダイヤと言われた石炭の生産地で、栄華を誇った北海道空知地方。札幌の北東部にある地方で、現在では北海道屈指の米の生産地となっています。空知の炭鉱は平成7年(1995年)までにすべて閉山。現在、北海道で採炭を行っているのは釧路の1鉱のみだそうです。ただ、空知でも露天掘り(坑道を掘らず地表から地下へ削っていく方法)は行われていて、砂川市や奈井江町の火力発電所の燃料として使用されています。炭鉱が存在したのは、岩見沢市、砂川市、上砂川町、三笠市、美唄市、赤平市、歌志内市、芦別市、奈井江町、滝川市、夕張市、栗山町でした。住友、三井、三菱の財閥企業を中心に、数多くの炭鉱が稼働し、地域に暮らす人々によって、独特の生活文化も生まれました。
炭鉱の閉山により人口の流出で、空知地域は過疎化が深刻な問題となっています。例えば、最盛期10万人近かった美唄市は現在2万3000人弱、歌志内市は最盛期4万6000人から現在は約2000人と激減しています。そのような中で、1990年代から、空知総合振興局などが中心に、「炭鉱(やま)の記憶」として、炭鉱施設や文化を遺産として残し、観光や町おこしに生かそうとしています。今回は、空知振興局が民間の観光会社に委託したモニターツアーに参加し、美唄、赤平などの炭鉱遺産を巡りました。
空知炭鉱遺産の目玉・旧住友赤平炭鉱立坑
道産子の筆者としても炭鉱というと、落盤や爆発事故、戦前の外国人の強制労働などあまり良いイメージはありませんでした。廃墟となったかつての炭鉱街などは、肝試しに訪れるくらいでした。ただ、筆者が子供の頃の昭和50年代、学校や家庭でも石炭ストーブも普通だった記憶があります。北海道の近代史に重要な1ページのはずの炭鉱の歴史などは学校でも学ぶことはなかったのです。その意味では興味深いツアーとなりました。
今回のツアーの一番の目玉は、札幌から100㎞弱の赤平市中心部にある旧住友赤平炭鉱立抗(たてこう)でした。
昭和38年(1963年)に完成、高さ43.8m、深さは約650mまで鉱員を送る立坑は当時の金額で約20億円をかけて建設されています。戦前までの石炭大量の生産で、地下350mより浅い部分の炭量が少なくなり、より深部の採掘のために立坑が各地に建設されました。平成6年(1994年)の閉山時まで使用されています。
個人では内部に入るには予約必要で簡単ではないのですが、今回はツアーということで入ることができました。昔の事務所でヘルメットをかぶり、閉山まで同炭鉱に働いていたというガイドさん2人から説明を受けます。そして立坑の内部に入ります。
ここがヤードと呼ばれる鉱車操作場です。驚いたことに何もかも閉山当時そのまま残されていました。
鉱員を乗せる人車もそのまま残されています。
ここが乗降場で、「ケージ」と呼ばれる大きな吊り篭で鉱員や資材を運んでいました。「場内禁煙」と貼り紙が張られているのが生々しいですね。石炭採掘のために掘った坑道は地下深くまで複雑に伸び、南北8㎞、東西3㎞、総延長は約200㎞に及び、隣町の歌志内市まで伸びていました。
ヤードから奥の階段を上ると、電気系統や機械がそのまま残っている部屋に入ります。写真はケージを乗降させる「ドラム」と呼ばれる巨大な巻き上げ機です。
これが巻き上げ室で、先述のドラムを操作します。当時の電話、新聞などもそのままで、これも生々しいですね。ほかに1600kwのモーターが2機あり、機械自体も今も動かすことができると言われています。炭鉱を掘り進むと、メタンガスが湧いてきます。そのメタンガスを生かしてガス発電を行い、動かしていたそうです。
これは、廃墟好きやメカ好きな方にはたまらない施設かも知れません。とにかく炭鉱マンが最近まで働いていたという生々しさを実感できます。この立坑は、すでに住友から赤平市に譲渡されたようで、空知地域を代表する貴重なモニュメントとして、観光客受け入れへ力を入れています。
この後は歩いて5分ぐらいのところに「旧自走枠整備工場」>があり、そこには住友炭鉱内で使用されていた大型の機械類が100点ほど展示されています。
写真の自走枠とはそれまで鉱員に頼っていた採炭を効率よく大量に発掘するために制作された大型機器。この工場で解体され、当時のままで炭塵が着いたまま保存されているのに驚きました。そのほかに炭鉱人車、坑内トラクター、ボーリングマシン、コールカッター、チェンジコンベアなどが展示されています。正直、筆者はメカ音痴なので、ガイドさんの説明を聞いてもよく理解できない部分もあったのですが、とにかく大型機械が並ぶ様は壮観でド迫力でした。
住友立坑を離れ、赤平駅の裏側には旧赤間炭鉱のズリ山階段と、選炭工場跡がありました。石炭採掘時に出る不要な岩石や選炭時に出る廃石を北海道では「ズリ」九州では「ボタ」と呼んでいました。このズリが長年堆積したのが、炭鉱の町を象徴する「ズリ山」となったのです。炭鉱自体は昭和48年に閉山しているがこのズリ山に階段を通し展望台を設置しています。
そして写真が選炭工場跡です。工場のほとんどは1999年に解体され、石炭を一時保管しておく、原炭ポケット部分のみが残っています。
旧三菱美唄炭鉱を公園化
次は美唄市の炭鉱遺産を紹介します。美唄は三菱、三井の二大財閥により炭鉱文化が栄えました。美唄中心部から東の山間に入り、かなり山奥に入った場所に旧三菱美唄炭鉱施設を整備した「炭鉱メモリアル森林公園」があります。今は東美唄と言われる地区ですが、最盛期にはこの周辺地区だけで3万人以上の炭鉱関係者が住んでいたそうです。昭和47年(1972年)に閉山し、今や面影はほとんどなく、ただの山です。公園に向かう道路わきに、かつての商店の廃屋や、映画館の映写室跡などが残っているのみでした。今は熊の目撃情報もあるほどです。
公園には約20mの立坑櫓2塔がひときわ目立ちます。この立坑は1923年に完成し、閉山まで約5100万トンの石炭が出炭されています。
そのほかには開閉所も、そして原炭ポケットが残っています。
写真が開閉所で地区の炭鉱関連施設や設備機械の電源が総合的にここで管理され、修理もここで行われていたそうです。
こちらが採炭された原炭を保管する原炭ポケットで最大で1300トンの貯蔵が可能だったそうです。今や森林浴に最適な場所になりましたが、山深い森林公園にこのような遺構があるのは、北海道以外の方にはシュールにも見えるかもしれません。しかし、往時の繁栄を伝える貴重な遺構であることは間違いありません。
炭鉱の町の木造校舎を利用した美術館
炭鉱メモリアル森林に向かう途中に、近年、評判を呼んでいる美術館「アルテピアッツァ美唄」>があります。
美唄町出身で現在はイタリア在住の世界的彫刻家・安田侃(かん)氏の大理石やブロンズの彫刻が約40点展示されています。
開放的なガーデンにある、2階建ての旧木造校舎と体育館をギャラリーとして利用され7、一部は幼稚園校舎となっています。この校舎は炭鉱町の小学校として昭和25年(1950年)に開校した「美唄市立栄小学校」で、最盛期は在校生1250人というマンモス校でした。閉山時には60人まで減少し、昭和56年(1981年)に並行しました。美唄の最盛期は10万人近い人口でしたが今は2万3000人弱。いかに炭鉱都市の人口の流出が激しいかを物語りますね。
それでも、ここは、炭鉱由来の遺産と芸術が融合した稀有な施設です。この美術館は時間が足りず、あまり見学できなかったので、また別の機会に詳しく紹介したいと思います。
最後は、美唄の代表的グルメ「とりめし」>を紹介したいと思います。美唄のソウルフードと呼ばれ、美唄市の西北端に近い中村地区に伝わる料理で、開拓時代、来客や祝い事で、自分の飼っていた鶏を使ったもてなし料理です。
一家の長である男が鶏を自らさばき、肉から内蔵(モツ)まで余すところなく使い、醤油味で炊き込んでいます。シンプルながら滋味あふれる味わいです。美唄にはとりめしと並ぶ名物「美唄やきとり」も全道的に有名ですが、こちらもいつか詳しく紹介したいと思います。炭鉱一家もとりめしをハレの日に食べていたことでしょう。
まとめ
炭鉱はその山で暮らす人すべてが家族の意味を表す「一山一家」として強い絆で結ばれていました。国の近代化に貢献しながら、時代遅れのエネルギーとなり街自体を捨てざるをえない悲しい現実。しかし、毎日命の危険を犯して働いた誇りは残っていて、今でも遠方から思いを持って帰って来る方も多いとか。今回巡った炭鉱遺産も数えきれない人々が関わったこともあるのか、独特の雰囲気があり、遺構自体が魂を宿しているようにも思えました。今後はこの炭鉱文化を伝える語り部がいないことが課題だそうです。
▽スポット情報
旧住友赤平炭鉱立坑
住所:北海道赤平市字赤平485
TEL:0125-34-2311(赤平市教育委員会教育課社会教育係)
炭鉱メモリアル森林公園
住所:北海道美唄市東美唄町一ノ沢
TEL:0126-62-3237(美唄市総務部地域経営室)
アルテピアッツァ美唄
住所:北海道美唄市落合町栄町
TEL:0126-63-3137
URL:http://www.artepiazza.jp/
コメント