今さら聞けない知っておきたい古代ローマの歴史散歩2

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21世紀のローマには、約2000年以上前の共和政時代のローマの遺跡が数多く残っています。エトルリア人の王様を追放し共和制を獲得したローマ。テヴェレ川の近郊から徐々に勢力をのばし、地中海にまで進出してメトロポリスとなっていくドラマチックな時代です。ここでは知っておきたい古代ローマ共和政期(紀元前509年~27年)の歴史をたどりながらおすすめの観光スポットをご紹介します。

 

王政から共和制へ

 

この古代ローマ初期共和制は、貴族出身の終身議員で構成される元老院が実権を握っていて、2名の最高官である執政官をはじめすべての要職は貴族で占められていました。徐々に軍隊の重装歩兵として国防を担っていた平民が力をつけ、紀元前494年に平民から選出される護民官という役職を設置し、後世に大きな影響を与えた最古の成文法「12表法」が紀元前449年に制定され、平民たちの勢力拡大に大きな役割を果たします。紀元前3世紀にはすべての役職が平民へ解放され、政治の中心であったフォロ・ロマーノ(FORO ROMANO)を舞台に繰り広げられた階級闘争は終結します。

フォロ・ロマーノの中で異彩を放つ新しい煉瓦の建物は今世紀になってから復元したもので、元老院が決定を下す国会議事堂のような元老院議場(CURIA GIULIA、クーリア・ジュリア)です。このあたりは共和制時代はローマの政治の中心でコミツィオ(COMIZIO)と呼ばれる特別な区域で、カエサルがフォロ・ロマーノを大改造したときに工事に着手しアウグスティヌス帝の時代に完成しました。

また、宗教の中心でもあったフォロ・ロマーノには、数々の神殿も建てられました。国家の財宝も収められていた古代ローマの聖なる場所のひとつであった農業の神、サトゥルノの神殿(TEMPIO DI SATURNO、テンピオ・ディ・サトゥルノ)は神殿の入り口を飾る8本の円柱と柱を結ぶ円柱しか残っていませんが、現在のフォロでもひときわ目立つ建物です。ローマの中でも最も古い地域である真実の口の教会前にあるヴェスタの神殿(TEMPIO DI VESTA、テンピオ・ディ・ヴェスタ)は、現存する最古の大理石神殿で交通量の激しい界隈でも、神聖な雰囲気を醸し出しています。

すべての道はローマへ通ずる

 

共和政が始まると、ローマ市は近隣地域の征服を始めます。「すべての道はローマへ通ずる」という有名なことわざどおり、エトルリア人から学んだ得意の土木技術力を活用し、政戦略上の立派な道路を建設していきます。紀元前312年に排水設備を備えた完全舗装の2車線もあるアッピア旧街道(APPIA ANTICA、アッピア・アンティーカ)が建設され、最終的にはギリシアへの船の港町プーリア州のブリンディシ(BRINDISI)まで開通します。「女王の道」とも呼ばれた重要な道路は、ギリシアをはじめとする東方への移動を容易にしたように、幅の広いまっすぐな水はけのよい舗装した高速道路を勢力圏内に張り巡らせていくのです。

アッピア旧街道は、日曜日には地域住民以外の車が規制されるので、アッピア旧街道の起点である聖セバスティアーの門(PORTA SAN SEBASTIANO、ポルタ・サン・セバスティアーノ)から、サイクリングや徒歩で散策することができます。このあたりはローマ市内とはいえ緑が多く、ローマ独特の唐笠松の並木が続く石畳で当時のモニュメントが沿道に残っていて古代ローマの雰囲気を楽しめます。勢いよく走る規制外の地域住民の車には十分ご注意ください。

またアッピア旧街道をつくった財務官アッピウス・クラウディス、同じ時期にローマ東方の町パレストリーナから連結した凝灰岩の筒を地下に這わせてローマまで水を運ぶアッピア水道も造ったのです。紀元前2世紀半ばには、約63kmの地上の橋脚によるアニエ・ヴェトス水道橋(ACUADOTTO ANIENE VECCHIO、アクアドット・アニエネ・ヴェッキオ)も作られ1日に約17万㎥もの水を市内に供給できるようになったと言われています。その後多く水道橋が作られ、今でもまちのあちこちに水道橋を見ることができます。

こうして都市機能の整備が続いたことにより、紀元300年頃の市の人口はすでに10万にも達したといわれています。

 

共和制ローマの興隆と混乱

 

紀元前264年には地中海に大勢力を持っていた現在のチュニジアにあたるポエニ人のカルタゴと3回にわたるポエニ戦争を闘いますが、カルタゴの名将ハンニバルは、ローマ支配下の地中海を避けて、5万の兵と当時の戦車のようなものである象を連れてチュニジアからスペインへ渡り、フランスを横切りアルプスを越えてローマに南下するという奇襲作戦をとるのですが、強固なローマのセルヴィウスの城壁を突破できず敗退してしまいます。

100年かけてこのポエニ戦争に勝利したローマは、トルコ、シリア、アフリカ北岸などほとんどの地中海沿岸地域は領土に加え、事実上、地中海をローマの内海として支配するようになるのです

ところが、発展の一途をたどる一方で、ローマ市には被征服地から奴隷をはじめいろんな民族が流入し、スラム街まで形成される多国籍の大都市となっていきます。農業国であったローマも植民地から安価な食糧が輸入されると、農民も土地を捨ててローマへ出てきます。スパルタクスの剣闘士の反乱なども起きたのもこの頃です。征服した同盟市のローマ市民権の要求や地中海の海賊など内外で混乱が続き、共和制が機能しなくなっていくのです。

そういった状況下で古代ローマ史上最大の有名人ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)の登場です。彼は最高司令官としてフランスを征服したあと、政治家として数々の改革に成果をあげます。フォロ・ロマーノに裁判所を4つ備えた司法、行政のためのユリウス会堂(BASILICA GIULIA)を、また市民集会で市民への演説を行う演壇(ROSTRI、ロストリ)を新しくし、またこの時期には手狭になったフォロ・ロマーノを拡張するために隣接した場所にカエサルのフォロ(FORO DI CESARE、フォロ・ディ・チェーザレ)まで建設します。現在では、半分はフォーリ・インペリアル通りの下に埋もれていますが、75×160mもの大きさのフォロの中心には本人の騎馬像まで置かれていたそうです。

独裁権力の座まであと一歩、というところまでたどり着きますが、紀元前44年アレア・サクラ(AREA SACRA DI ARGENTINA、アレア・サクラ・ディ・アルジェンティーナ)のあたりで元老院派のブルートゥスらによって暗殺されてしまいます。フォロ・ロマーノのカエサルの火葬が行われた場所に、紀元前29年、カエサルの養子のオクタヴィアヌスが神君カエサルの神殿(TEMPIO DI CESARE、テンピオ・ディ・チェーザレ)を奉納しましたが、現在では基壇しか残っていません。

再び混乱に陥った中で、オクタヴィアヌスと、カエサルの部下だったアントニウスとプトレマイオス朝エジプト最後の女王クレオパトラが、紀元前31年ギリシア沿岸のアクティウムで海戦を闘い勝利したオクタヴィアヌスが100年にわたる内乱をおさめ共和制時代に幕を下ろします。

この頃、クレオパトラの自死によって新らしくローマの属州となったエジプトのブームが起き、ローマ人によるピラミッドまでいくつも作られました。今でも地下鉄B線ピラミデ駅近くに、紀元前1世紀末にローマ法務官だったガイウス・ケスティウスの墓として作った高さ27m、一辺22mもの大きさのピラミッド(PIRAMIDE、ピラミデ)がアウレリアヌス城壁に挟まれて現存しています。

このピラミッドは、長年イタリアと貿易の仕事をしていた日本企業が、会社の創立記念にとメセナ活動を行い美しく修復されました。工事期間中は、ピラミッドの上に日本国旗が掲げられていて、ローマっ子の間では日本人に修復されたと有名なピラミッドです。2000年の汚れを落として当時の美しい色を取り戻したピラミッド、足を運んでみてください。

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