21世紀のイタリアを旅行していても、国中いたるところに痕跡をとどめる古代ローマの足跡。ヨーロッパの人々には常識であり「古代ローマ史」は、私たち日本人にとってあまりなじみのないために、現地で説明を聞いても、あまり理解ができないことも残念ながら多いはず。ここではイタリアを楽しむために知っておいてほしい古代ローマ王政期(紀元前753年~509年)の歴史をたどりながらおすすめの観光スポットをご紹介します。
オオカミに育てられた双子の伝説
古代ローマは、初代の王ロムルス(ROMOLO、ローモロ)が紀元前753年4月21日にパラティーノの丘(PALATINO、パラティーノ)に建国したのが始まりとされています。現在でもローマの誕生日には様々な古代ローマにちなんだイベントが開かれます。特に古代ローマ人に扮した行進や剣闘試合、ダンスなどのショーがチルコマッシモ(CIRCO MASSIMO)で繰り広げられるさまは古代ローマファンなら必見です。
古代ローマの建国については、トロイの木馬で有名なトロイ戦争の時代にまでさかのぼる伝説があります。トロイには、愛と美の女神ヴィーナス(VENERE、ヴェーネレ)を母に持つ王子がいました。息子が殺されることを恐れたヴィーナス神の教示により、トロイ陥落前に脱出に成功した王子一行は、新たな王国の建国を目指して海路旅立ち、イタリア半島ローマ近くの海岸にたどり着きます。
何世紀ものち彼らの子孫がローマの南側にあるカスッテリ・ロマーノ(CASTELLI ROMANO)地方に、アルバロンガ(ALBALONGA)という王国を建設します。何代か経たのちのアルバロンガ王の娘は軍神マルス(MARTE、マルテ)に見初められ双子を身ごもりますが、次の王位を狙う叔父によって生まれたばかりの双子を川に流されてしまいます。この双子は幸いにも現在のサン・ジョルジョ・イン・ヴェラブロ教会(SAN GIORGIO IN VELABRO)のあたりに流れ着き、近くの洞窟に住んでいた母狼によって育てられます。
成長した双子は、次第に近隣の羊飼いたちのボスとなり、叔父が王となっていたアルバロンガに攻め入り勝利します。最終的に双子間の権力争いとなり、勝利した兄ロムルスがその名にちなんでローマという国をパラティーノの丘(PALATINO)に創設します。パラティーノの丘では、現在も「ロルムスの小屋」と言われる住居跡がありますが、実際は鉄器時代の小屋(FONDI DICAPANE、フォンディ・ディ・カパーネ)です。またその近くにはロムルスが建国後最初にパラティーノの丘の周囲にめぐらせたと言われる城壁(MURO ROMOLO、ムーロ・ローモロ)の一部が残っています
この伝説によるとローマ人は美の女神ヴィーナスと軍神マルスの子孫となるためか、いまだにローマ人に愛されているエピソードです。カピトリーノ美術館(MUSEI CAPITORINI)には、カンピドリオの雌狼(LUPA CAPITORINA、ルーパ・カピトリーナ)という紀元5世紀にエトルリア人によって作成されたブロンズ像があります。雌狼の下で乳を飲もうしている双子は後世に付け加えられたものですが、ローマのシンボルともいうものです。カンピドリオにあるローマ市庁舎の左横にも、小さなコピーをみることができます。
ローマの人気サッカーチーム「ASローマ」のシンボルマークも、このブロンズ像の意匠を使っています。最近では、建物の壁面に現代アートを描くストリートアートをローマ市の後援で展開されていますが。テスタッチョの市場(MERCATO DI TESTACCIO、メルカート・ディ・テスタッチョ)の横に描かれた大きな狼は、巨大なネズミのようだとローマっ子たちには悪評をたたかれています。
サビニ族の女性を略奪したローマ王政初期
建国当時は構成メンバーがほぼ男性のみだったため、初代王ロムルスは近隣のサビーニ(SABINI)族を祭りに招待します。祭りの最中にみんなが油断したところを狙ってサビーニ族の未婚の女性たちを略奪したという伝説があります。サビーニ族の男性が戦闘支度を整えて女性の奪回のためにローマへ戻ると、ローマ人と結婚して幸せなサビーニ族の女性たちによって戦いが仲裁され合同の和平を結び、共同で勢力の拡大に向かっていくのです。
結婚式のあと花婿が花嫁を抱き上げて家に入るというロマンチックなヨーロッパの風習は、実はこのエピソードによるものだそうです。カピトリーノ美術館(MUSEI CAPITOLINI)にあるピエトロ・ダ・コルトーナ(PIETRO DA CORTONA)作の「サビニ女の略奪」(RATTO DELLE SABINE、ラット・デッレ・サビーネ)は275×423cmもの大作でバロック時代の画家ならではのドラマチックな作品です。
エトルリア人の王による技術革新
やがて当時のイタリア半島で繁栄を誇っていた先進国であったエトルリア系のタルクイニウス・プリスコが5代目の王として選ばれると、彼らの進んだ技術によりさらにローマは都市として発展していきます。建国当初は防衛上の意味からも7つの小さな丘の上にわかれて住んでいたローマ人ですが、人口の増加に伴い丘の間の湿地帯を活用する必要となってきました。
そこで行われたのがパラティーノの丘とカピトリーノの丘(CAPITOLINO)の間にある谷間の干拓事業です。テヴェレ川(FIUME TEVERE、フィウメ・テヴェレ)まで地下水道を建設し、谷間の沼地を公共生活の中心地であるフォロ・ロマーノ(FORO ROMANO)に変身させたのです。考古学的調査によって、実際紀元前6世紀ごろに整備されたことが裏付けられています。真実の口(LA BOCCA DELLA VERITA、ラ・ボッカ・デッラ・ヴェリタ)の近くのテヴェレ川の岸には古代の大地下水道(CLOACA MASSIMA、クロアカ・マッシマ)の排水口を見ることができます。
この5代目の王の時代に、同じくパラティーノの丘とアヴェンティーノの丘(AVENTINO)の間の沼地の干拓事業により大競技場チルコ・マッシモの建設、そして最も高い丘であるカピトリーノにはローマ人の信仰する最高神ユピテル(GIOVE、ジョーヴェ)に奉げる神殿が建設されます。古代ローマ人はは、ギリシア神話のオリンポスの神々を基にしたローマの神々を信仰していました。現在もコンセルヴァトーリ美術館(MUSEO CONSERVATORI、ムゼオ・コンセルヴァトーリ)にユピテル神殿(TEMPIO DI GIOVE、テンピオ・ディ・ジョーヴェ)の一部基壇がみられます。
続く6代目の王セルヴィウスの時代には7つの丘を囲んで3.5×1.2km、全長8kmの小さいながらも強固な城壁(MURA SERVIANE、ムーラ・セルヴィアーネ)が作られます。2,500年経った今でもテルミニ駅の地下構内に、テルミニ駅をチンクエチェント広場に出てすぐ右側に残っているのを見ることができます。この城壁は壊れたのではなく、ローマ市が大きく発展するためには障害物になるとして、カエサルによって故意に破壊されたので一部しか残っていないのです。
5代目の王の孫にあたる7代目の王タルクィニウス・スペルヴスは、6代目を暗殺し強引に王位につきますが、典型的な独裁専制君主だったために最後にはローマ人によって追放されてしまい、古代ローマの王政は7代で終焉します。この最後の王へのクーデターも、フォロ・ロマーノの演説台で集まった市民を前にしての演説で市民兵結集の呼びかけが行われたというエピソードを思い起すと、フォロ・ロマーノ散策も一層感慨深いものとなるのではないでしょうか?
紀元前8世紀中ごろから中部イタリアに現れ、高度な技術や文化を誇ったエトルリア民族もこの時期を境に少しずつ衰退の一途をたどり、やがてはローマに吸収されてしまいます。エトルリア文字はいまだに完全に解読されていないために謎の民族として扱われていますがローマにはエトルリア人の美しい芸術品が集められた国立エトルリア美術館(MUSEO NAZIONALE ETRUSCO DI VILLA GIULIA、ムセオ・ナチョナーレ・エトルスコ・ディ・ヴィッラ・ジュリア)があり、意匠を凝らしたブロンズ像、手を取り合う微笑む夫婦の石棺やエトルリア人の墓などエトルリア文明の素晴らしさに触れることができます。古代ローマを知るには絶対知っておくべきエトルリア人の知識を深めるために欠かせない美術館です。
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