今さら聞けない知っておきたい古代ローマの歴史散歩3

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2000年近くたった今日でも、驚くばかりの古代ローマ帝国(紀元前27年~紀元後476年)の偉業。1世紀のトライヤヌス帝時代に最大領土を誇り、北は現在のイギリスから南はアフリカ北岸一帯、西はスペイン、東はトルコやシリアにまで及ぶ広大な土地を支配しました。皇帝の莫大な権力を行使して建てられた数々の美しい建造物は、世界遺産に指定され世界中から訪れる観光客で1年中あふれかえっています。ここでは、約500年にわたる帝国期のローマについて時代を追いながら皇帝たちにまつわる名所をご紹介します。

 

大理石の都、ローマ帝国の成立

 

紀元前27年、約1世紀にわたる内戦の勝利を手にしたカエサルの甥オクタヴィアヌスは、共和制の政治の中心であった元老院よりアウグストゥス(尊厳者)という称号を受け、実質上の独裁君主の座を手にします。ヴァチカン美術館にある逞しい肉体美を誇る「プリマポルタのアウグスティヌス帝の像」(AUGUSTO DI PRIMA PORTA、アウグスト・ディ・プリマ・ポルタ)のように、35歳という若さと美しい容貌を誇示する皇帝像を数多く作り皇帝全土に配り皇帝のイメージ向上を図ったため、アウグスティヌス帝の彫像は現在でも最も数多く残っています。

ローマを煉瓦の街から大理石の都市へと造り替えた、と言われるほど、アウグスティヌス帝は大規模な都市改造を行い、アウグストゥスのフォロ(FORO DI AUGUSTO)などの堂々たる建造物を建設する一方で、初代王ロムルスの時代から権力者の住宅地であったパラティーノの丘(PALATINO)には、こじんまりとしたアウグティヌス帝の家(CASA DI AUGUSTO、カーザ・ディ・アウグスト)が残っていて、元老院などから反発を受けないような配慮がうかがわれます。アウグスティヌス帝の妃であったリヴィアの家には美しい壁画が残っていたのですが、現在は保存のためにローマ国立博物館マッシモ宮(MUSEO NAZIONALE ROMANO PALAZZO MASSIMO AL TERME、ムゼオ・ナッツィオナーレ・ロマーノ・パラッツォ・マッシモ・アル・テルメ)で見ることができます。

アウグスティヌス帝の建造物として忘れてならないのが「平和の祭壇」(ARA PACIS AUGUSTAE、アラ・パチス・アウグスターレ)です。長かった市民戦争の終結を記念して作られた平和と皇帝礼賛のシンボルともいうべき荘厳な浮彫が記されています。また、この近くにはアウグスティヌス帝の墓廟(MAUSOLEO DI AUGUSTO、マウソレーオ・ディ・アウグスト)があります。草に覆われていた古く大きな建造物はアレクサンダー大王の墓を模して造られていて、当時は2本のオベリスクが入り口を飾る立派なものだったようです。現在は、ムッソリーニ時代に造られた大きな建物に周りを囲まれていて、広場にある有名なレストランで食事をする人で賑わう場所になっています。

五賢帝の時代、ローマの平和

 

続く皇帝たちもほぼ安定した治世を行い、ネルヴァ帝からトライヤヌス帝ハドリアヌス帝アントニウス・ピウス帝マルクス・アウレリアス帝のいわゆる5賢帝(紀元96年~180年)の時代までがローマ帝国の最盛期で、「ローマの平和」(PAX ROMANA、パックス・ロマーナ)といわれる時代を約200年享受します。

この平和な時代には、「皇帝たちのフォロ」(FORI IMPERIALI、フォッリ・インペリアーリ)には競って豪華なフォロが、ヴェスパシアヌス帝のコロッセオ(COLOSSEO)、ハドリアヌス帝のパンテオン(PANTEON)などの公共建築物が次々と建設されます。トライアヌス帝の時代にローマ帝国は最大領土を獲得しますが、この時にローマ人によってヨーロッパのほとんどの首都ロンドン、パリ、ウィーンなどが建設されたのです。

パラティーノの丘にもドムス・フラヴィア(DOMUS FLAVIA)ドムス・アウグスターナ(DOMUS AUGUSTANA)をはじめとする当時の皇帝たちの壮大な住居、またローマ近郊のティヴォリに残るハドリアヌス帝の別荘(VILLA ADORIANA、ヴィッラ・アドリアーナ)は当時の皇帝のスケールの大きさを知るためにぜひ訪れることをおすすめします。この時期にはローマ市の人口も100万人を超えたと言われていて、まさにローマの平和を謳歌します。

 

キリスト教の誕生と迫害

 

一方、アウグスティヌス帝の時代にローマ帝国の植民地だったエルサレムにイエス・キリストが誕生し、続くティベリウス帝の時代に33歳で十字架刑で処刑されます。ところがその後、広大なローマ帝国内を12使徒をはじめとする信徒たちが布教活動を始め、初期キリスト教会が帝国内に成立するのです。ところがローマの宗教は、建国時よりの30万ともいわれるローマの神々を信仰し、さらに死後に神格される皇帝たちをも崇拝するものです。一神教のため皇帝を崇拝しないキリスト教徒は皇帝を裏切るという罪で迫害され殉教させられていったのです。

64年に起きたローマの大火事の際、悪名高いネロ帝キリスト教徒に犯人の罪を被せ大量殺害しています。このころ、教会の重要人物である聖ペトロはカリグラ帝の競技場(現在のサンピエトロ大聖堂)で逆十字架刑に、聖パウロは地下鉄B線の終点ちかくにあるトレ・フォンターナ教会(SS. VINCENZO E ANASTASIA ALLE TRE FONTANE、サンティッシモ・ヴィンツェンゾ・エ・アナスターシア・アッレ・トレ・フォンターナ)で斬首刑により殉教しています。

ところが、激しい迫害にもかかわらず逆に信者は増えていくのですから不思議なところです。信者たちはローマの城壁外にあったカタコンベという地下共同墓所を集会場所として信仰を続けていきます。アッピア旧街道沿いには、サン・カッリストのカタコンベ(CATACOMBE DI SAN CALLISTO)、サン・セバスティアーノのカタコンベ(CATACOMBEDI SAN SEBASTIANO)など見学が可能なカタコンベがいくつかあります。

 

ローマ帝国の混迷と衰退

 

五賢帝時代最後には大きくなりすぎた帝国の治世は乱れ軍人皇帝が乱立し混迷の時期が続きます。紀元271年には蛮族の侵入に備えるためにアウレリアヌス帝19kmの城壁(MURA AURELIANA、ムーラ・アウレリアーナ)をめぐらせます。事実上無防備だったローマの平和の終焉を象徴する出来事です。ローマのコンクリートで作られた厚みのある堅固な城壁や出入りのための門は、現在でもローマ市内いたるところで見ることができます。空港からローマ市内へ向かう際にサンパオロ門(PORTA SAN PAORO 、ポルタ・サン・パオロ)アルデアティーナ門(PORTA ARDEATINA、ポルタ・アルデアティーナ)を通ることが多いのでお見逃しなく。

3世紀末ディオクレティアヌス帝が専制君主制を確立し、帝国を正帝と副帝2人づつで治める4分統治をはじめ、ローマは元老院はあるものの帝国の首都ではなくなります。テルミニ駅近くに残る巨大なディオクレティアヌスの大浴場跡(TERME DI DIOCLEZIANO、テルメ・ディ・ディオクレツィアーノ)からも皇帝権力の強大さがが覗われますが、結局4分統治も失敗に終わります。

混乱した状況の中、副帝だったコスタンティヌス帝は、正帝マクセンティヌスとのミルヴィオ橋での闘いに挑み、闘い前夜「十字架をシンボルに戦え」との夢のお告げのとおりに実行し帝位を勝ち得たという理由で、帝位についた後313年キリスト教を公認するミラノ勅令を出します。バチカン美術館にあるラファエロの壁画「ミルヴィオ橋の戦い」(VITTORIA DI CONSTANTINO SU MASSENZIO A PONTE MILVIO、ヴィットリオ・ディ・コスタンティーノ・ス・マッセンツィオ・ア・ポンテ・ミルヴィオ)をはじめ、このモチーフの絵画はキリスト教会などにたくさん残されています。

324年には帝国を再び統一し独裁者となり、キリスト教を帝国の公認宗教とするという世界史上最も重要な改革を行います。さらに、コンスタンティヌス帝は現在のイスタンブール(当時のビザンティウム)の都市名をコンスタンティノープルと自分の名前に変えてローマ帝国唯一の首都としたので、ついにローマは単なる帝国内の一都市となってしまうのです。

しかし、こうした大改革にも状況は好転せず、ついに395年テオドシウス帝東ローマ帝国と西ローマ帝国と、帝国を2分するという改革に挑みますが、476年ゲルマン人傭兵オドアケルによってイタリア中部の都市ラヴェンナを首都とする西ローマ帝国は滅ぼされてしまったのです。再び歴史の表舞台に登場するのは、キリスト教の都としてのローマなのです。

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