大阪城西の丸庭園を写真付きで紹介【観光におすすめ】

大阪

大阪と言えば大阪城を思い浮かべる歴史ファンも多いのではないでしょうか。

「大坂城跡」として国の特別史跡にも指定され、外国人観光客にも人気のある大阪城公園には、見どころが満載。

今回は、大阪城の中でも西部にあたる西の丸庭園付近のご紹介をします。

まずは、大阪城の歴史から

大阪城と言えば、多くの人が豊臣秀吉を思い浮かべます。ですが、実際に秀吉が大阪城に居住していたのはほんの2年程度と言われています。

 

大阪城が築城される前、安土桃山時代の初期までは、ここには浄土真宗石山本願寺がありました。織田信長との戦い(石山合戦)により焼失し、信長は跡地への築城を目論んでいたようですが、本能寺の変により願い叶わず失脚。その後の混乱を経て、秀吉により築城されます。

秀吉の死後は秀頼伏見より移り住み、大坂夏の陣で自刃するまで、この城で豪華絢爛な生活を送ったとされています。

 

大坂夏の陣以降は、徳川幕府により大規模改修が行われるも、天災や火災により大部分を失っています。1665年の落雷により天守部分も焼失しています。

 

幕末には新政府軍に明け渡され、陸軍用地として使用されることになります。1928年に当時の大阪市長 関一(せき はじめ)の提案により天守閣の再建が実現しましたが、太平洋戦争では大阪大空襲などの戦火により、多くの貴重な櫓などが焼失することとなります。

 

1995年から行われた「平成の大改修」では耐震工事、外壁の塗り替え、金箔の貼り直しなどが行われ、現在の形となっています。

 

 

大阪城へのアクセス

JR環状線・・・森ノ宮駅、大阪城公園駅

地下鉄長堀鶴見緑地線・・・大阪ビジネスパーク駅

地下鉄谷町線・・・谷町四丁目駅、天満橋駅

京阪本線・・・天満橋駅

が便利です。

今回は、大阪城西側の天満橋方面から大阪城公園に入ってみました。地下鉄谷町線の天満橋駅3番出口を出て東方面に進みます。大手前の信号を渡ると、公園入り口

 

西の丸庭園へ

↑ここで見えてくるのが乾櫓(いぬいやぐら)。方角が戌亥(いぬい)にあることから名づけられたと言われています。重要文化財にも指定されているんですよ。写真下は、内側(西の丸庭園)から見た乾櫓です。

 

乾櫓を横目に、外堀沿いを右手(谷町四丁目方面)に緩やかな上り坂を進みます。

左手に千貫櫓が見えてきます。信長の石山本願寺攻めの際、なかなか落ちなかった櫓で、「この櫓を落とした者には千貫与えても惜しくない」と話したのが名前の由来と言われています。

乾櫓、千貫櫓は西の丸庭園内にあります。下の写真、正面が多聞櫓、左手に半分写っているのが千貫櫓です。

広場に入ると、大阪城公園の正面玄関ともいえる「大手門」が見えてきます。

大手門に向かって外堀を渡る橋には、欄干がありません。お堀に落ちないよう覗いてみると、スリリングな気分を味わえます。

↑この大手門の今の形は、徳川秀忠によって修復されたもの。江戸時代ではメジャーな高麗門形式で建築されています。

↑大手門をくぐってすぐ、多聞櫓があります。

この日、多聞櫓、千貫櫓、焔硝蔵の一般公開(西の丸庭園入場料込みで700円)をしていたので入ることができました。この長い廊下沿いにたくさんの小部屋があり、いつでも出陣できるように兵士達が籠城し、寝泊りしていたそうです。

 

進んでいくと西の丸庭園の入り口があります。

西の丸庭園(入場料 大人:200円)は、6.5haという広さをもつ庭園。桜の季節にはソメイヨシノを中心に約300本もの桜が満開になり、多くの人で賑わいます。

また、ここには桜の標準木があります。大阪地区の桜の開花前線はこの標準木を基準に発表されることになっています。

桜以外にも、かえでや椿、もみじ、さざんかなど多くの草木があり、年間を通じ四季を楽しめるようになっています。

 

西の丸庭園は、秀吉の正室である北政所(ねね)のお屋敷があったとされています。

手入れの行き届いた芝生が気持ちよく、広大な敷地を利用し、プロジェクションマッピングや歌舞伎などのイベントが開催されることもしばしば。

 

さて、先ほどお堀の外から眺めた千貫櫓にも入ってみます。

多くの兵士達がここで戦いに備え、待機していたのでしょうか。

 

↑さて、この西の丸庭園の北端には大阪迎賓館があります。

1995年APEC大阪会議の際に建築された建物で、現在では休憩所、会議場、お茶会などのイベント会場として使用されています。

 

↑その隣の焔硝蔵(えんしょうぐら)は、火薬庫として使用されていた蔵です。1660年の落雷により、青屋口(大阪城ホール付近)の焔硝蔵が大爆発を起した経緯があり、徳川幕府によって多額の費用をかけて建築されました。花崗岩を使った頑丈な造りになっており、防火、盗難、防湿対策を見てもたいへん優れた火薬庫で、明治以降も軍により使用されていたといいます。

江戸時代の姿のまま残っている火薬庫は、日本でもここだけなのだとか。漆喰でしっかりと固められた花崗岩は、大きさが揃っており綺麗でした。ライトアップされた火薬庫は、幻想的な雰囲気でした。

 

1660年の大爆発では、青屋口の門の一部が14kmも離れた くらがり峠(生駒市)にも届いたと言われています。

 

↑その隣、豊松庵(ほうしょうあん)生垣に囲まれた静かな茶室です。千利休を呼び寄せ茶道に親しんだ秀吉にちなみ、1969年、松下幸之助により寄贈されました。数寄屋造りの茶室からは天守閣をのぞみ、趣のある風情を添えています。茶会などにも開放されています。

 

 

さて、大阪城には29ケの井戸があったとされています。現存する5つの井戸遺構のうち2つが、この西の丸庭園内にあります。

徳川時代に70名の城代が集い勤務していた大阪城代屋敷。2600坪を超える広いお屋敷でしたが、戊辰戦争の際に焼失し、今ではこの井戸を遺すのみとなりました。

もう1つが、当時「お花畑」と呼ばれた部分で、千貫櫓の東に位置しています。

いずれもフェンスが設置され、草木が生い茂っていました。

 

 

櫓開放イベントが開催されていたからでしょうか、至る所に観光ボランティアの方がおられ、見どころなどお聞かせいただけました。西の丸庭園だけでも、これだけの文化財や遺構があり、大いに楽しむことができます。お天気のよい日にお出かけされてみませんか?

コメント

タイトルとURLをコピーしました