開通寸前に断念!函館に残る幻の旧戸井線跡を歩く

北海道

「北海道の知られざる歴史を歩く」シリーズ、と勝手に名づけていますが、今回は北海道の昭和史です。函館市には、戦前に着工された幻の「戸井線」跡があります。軍事貨物用のために開通を目指した鉄道です。開通寸前で未成線のまま終わりましたが、旧戸井町(現函館市)を中心にその跡や建造物が今もそのまま残っている場所があります。戦争遺跡として北海道でも注目され始めた、「戸井線」跡を辿ってみました。

 

本マグロで有名な旧戸井町(現函館市)

戸井線とは、函館市の函館本線の五稜郭駅から、函館市中心部を突き抜け、地元民が「下海岸」と呼ぶ南の海岸沿いを通り旧戸井町の戸井駅まで、29.2㎞を結ぶ予定だった未成線の鉄道です。

旧戸井町は2004年に函館市に合併された昆布、マグロ、タコなど漁業が盛んな街です。汐首岬は、北海道と本州間が最短距離(17.5㎞)にあり、晴天時は青森県の大間など下北半島が眺められます。

写真は汐首岬周辺の光景です。筆者が訪れた時は小雨交じりの曇り空で青森県は眺められませんでした。また、今やブランドになっている大間のマグロと同じマグロが獲れるため「戸井マグロ」も築地などでは高値で取引されています。

筆者が子供のころは戸井のマグロも本当に安く、当たり前に食べられたのですが、今や漁獲量も減ってきたこともあり、地元民は簡単には食べられず、富裕層向けの食物になっているのは残念な思いがあります。これは函館だけではなく北海道の農業漁業全般に言えることです。

 

未成線のまま中止に。廃線跡は道路などに転用

戸井線は泥沼の日中戦争に突入している昭和12年(1937年)に着工されました。船舶輸送の改善(戸井から青森県大間町の航路利用)や、戸井町に津軽海峡防衛のため軍事要塞を建設用の資材輸送など軍事目的で建設が開始されました。ほぼ9割がたの路盤が完成していましたが、太平洋戦争の勃発など物資不足のため、昭和18年(1943年)に残り2.8㎞を残し工事を中断。戦後も再開されることなく中止となりました。開通された廃線跡は全国各地にありますが未成線跡は珍しいとのことです。廃線後はそのまま道路などに転用されています。特に函館市内中心部はほとんどが道路となっていて痕跡はあまり残っていません。しかし、一部、函館市西北部の湯川町から深堀町を結ぶ区間「緑園通り」と呼ばれる自転車と歩行者専用道路として使われ、市民の通学や散歩道として使用されています。戸井線の遺構を函館市が払い下げを受け、遊歩道化したものです。

筆者も小学生や高校時代に通学でよく使用した道です。しかし最近までこの自転車道路が戸井線跡だとは知りませんでした。戦前の軍事施設が戦争遺跡として認識され始めたのもそれほど昔の時代ではないですから無理もないでしょう。この緑園通りには数少ない戸井線の遺産がありました。

戸井線の上にまたがるコンクリートのアーチ橋です。橋は今も道路として使われています。筆者も、橋の横にある坂道から自転車を押して上りアーチ橋上を通って通学していました。橋下のアーチ部分は万が一の崩落に備え、鉄板のアーチで補強してありました。

今見ると時代を感じさせる外観です。戸井線とも知らず何気なく通っていた道にこんな戦争遺跡が現役で残っていたのは感慨深かったです。

 

近代土木遺産の汐首岬アーチ橋

緑園通りを湯の川方面に出ると痕跡は消えますが、函館空港の海側沿いには路面跡が続いているようですが近づけません。函館空港から海沿いに行くと、旧戸井町にほど近い銭亀沢町に汐泊(しおどまり)川があり、そこには橋脚が残っていました。

4つの橋脚が野ざらしにされており、まさに廃墟、廃線跡といった佇まいです。この川は鮭が遡上してくるので、子供時代に橋台も何十回も見ているはずですが、何でこんなものがあるのだと不思議に思ったぐらいで、あまり印象に残っていません。しかし、戸井線の遺構だと思うとやはり歴史の重みを感じます。

この橋を渡った向こうには、戸井町へ向かう廃線跡が続いていました。

もちろん入り口は鉄門で閉じられ通行禁止です。この銭亀沢からはバスや車で15分ほどで、戸井町の汐首岬近辺に着きます。ここが戸井線跡観賞のメインスポットでしょう。ここには冒頭の写真の大きなアーチ橋が残されています。

函館市中心部からは車50分ほどでしょうか。函館バスなら「汐首灯台」下車で徒歩すぐです。橋下は民家があり、眼前は海岸で駐車場もないので、駐車には注意が必要です。75年もの風雪に耐え、非常に威厳と風格ある建造物です。近代土木遺産にも認定されています。同アーチ橋は北海道のローカルテレビや観光サイトで取り上げられたためか筆者以外にも写真を撮影する方もいました。一部崩落している部分もありますが、今も健在です。この上には汐首岬灯台があるのですが、現在は閉館となっていました。同灯台の下にも橋脚が残っているのが写真でわかると思います。

戸井線跡にはいくつかアーチ橋が残されていますが、当時の資材不足のため鉄筋は使用されず、竹や木材が使われたとも言われました。しかし、崩落の危険性があった橋を解体したところ、竹や木材も使用せず、コンクリートのみで建築されたことが分かっています。コンクリート材も粗悪なものでした。常に崩落、解体の危機にさらされていますが、貴重な戦争遺産、土木遺産として後世に残して欲しいものです。

汐首岬のアーチ橋からさらに南に進んだところにもアーチ橋が残っていました。こちらは先ほどに比較すると小ぶりです。しかし、ここは地震や津波が起こった時の避難場所に指定されていて、民家の間から階段で登ることができました。橋の上は雑草だらけでしたが、眺めは晴れていれば上々だと思います。

このアーチ橋にトンネルも残されていました。近くまでいきましたが、雑草がひどく泥地になっていて、ヘドロのようなひどい匂いがして近づくことはできませんでした。

トンネルは独特の雰囲気があります。悲しい歴史ですが、この旧戸井線も朝鮮人労働者がかなり亡くなった事実があります。朝鮮の方に対する思いは人ぞれぞれですが、歴史の事実には向き合わないといけないと思います。

 

戸井線の近くに知られざる砲台跡を発見

前述のアーチ橋以降、道路化され主だった痕跡は消えます。しかし、旧戸井町には戸井線のほかにも知られざる戦争遺跡がありました。津軽海峡防衛のために建造された汐首岬第一砲台跡です。

廃校となった戸井高校のある細い道を内陸に入り、町営団地の側にあります。昭和4年(1929年)に着工され、同8年に完成。30㎝榴弾砲が4門配置されていました。写真は弾薬庫跡で、これが2基、崩れかけた砲台跡が2基が残され、大規模なものです。

目立つのはべトン(コンクリート)の迷彩模様。地元では迷彩要塞跡とも呼ばれているそう。砲台や弾薬庫の上部は今は植物が繁茂していますが、かなり目立たなかったはずです。隣に第二砲台もありましたが、戦後、進駐軍により爆破され痕跡はほぼ残っていません。また、目の前がグラウンドで、グラウンド整備時に砲台などが破壊されているとか。

さらに、戦後も内部は馬小屋などにも使われ、民家が近いため一部は物置場として今も使われています。もちろん案内版などはなくよほどのマニアじゃなければ来ない場所かも知れません。しかし、戦争や平和、昭和の歴史を学ぶには大切な遺構だと感じます。何とか函館市などが整備に動いて、生きた教材としてくれることを望んでやみません。

 

まとめ

昨今、今回紹介したような戦争遺産や軍事遺構なども注目を集め初めています。戦後72年がたち、あの悲惨な戦争を経験してきた方々は次々と鬼籍に入ってきている時代です。風化させないためには、このような遺構を残し、あの戦争とは何だったのか、今一度振り返り、後世に伝えることも大切だと思います。また、汐首岬のアーチ橋のように見どころのある建造物は非常に大切であり、歴史的価値があるとも感じました。

 

▽スポット情報

旧戸井線(アーチ橋)

住所:函館市汐首町

TEL:0138-27-3333(函館市元町観光案内所)

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