ウエストエンドの雑踏とビジネスマンが急ぎ足で行き交うシテイの狭間に、別世界のように閉ざされた場所があります。
イギリスの司法の中心であり、2つの法学院のあるテンプルと呼ばれるエリアです。
中でも目をひかれるのが、テムズ川に程近いテンプルストリート二番地にあるネオゴシックの館。
ガイドブックには掲載されていませんが、実はこのお屋敷、毎年一定期間に限り入館してその内部を見学することができるんです。
建造より約120年間閉ざされていた館
この館はその住所から「テンプルストリート2番地」(Two Temple Street)と呼ばれ、現在は慈善団体であるブルドック・トラストが所有しています。
通常は一般に公開されていませんが、1月末から4月後半、全国の公共美術館から選ばれた作品の展示会の期間に限り、その展示会と建物内部が、何と入館料無料で一般公開されるのです。
これまで一度も公開されたことのないこの館がその門戸を一般に開いたのは2011年からで、まだ広く知られていないせいか入館者も少なく、正にロンドン中心部に今も残る秘密の館と言えるでしょう。
NYの大富豪の為に造られたネオゴシックの館
この館は、世界一の大金持ちと言われたアメリカの大富豪アスター家の三代目嫡男、ウイリアム・ウォルドルフ・アスターが、その豊富な資金をつぎ込んで1895年に建造したゴシック・リバイバル様式の館です。
NYに生まれたウォルドルフ・アスターは、子供時代にドイツやイタリアで個人教育を受け、ヨーロッパの文化を吸収しつつ成長します。
やがてアスター家の全財産を相続しますが、NYの社交界や親類との確執に嫌気がさし、妻子ともどもロンドンに引っ越してしまいます。この館はそんな彼のオフィスとして建築されました。
ウォルドルフ・アストリアホテルの秘話
アスターはNYを離れる際、確執関係にあった親類の住むお隣への腹いせに、自宅敷地に隣家をすっぽりその影に入れる、ドイツ・ルネッサンス様式13階建てのウォルドルフ・ホテルを建築します。
しかし、相手も負けておらず、更に高くより豪華なアストリア・ホテルを建てて対抗します。
こうして並んだ二つのホテルはその後融合し、エンパイヤステートビルの建設に伴って移転。今日のNYのランドマークでもあるウォルドルフ・アストリア・ホテルとなったのです。あの有名なホテルには、こんな裏話があったのですね。
アスターのメランコリーが今も漂う館
ロンドンに移住したアスターファミリーは、1893年にオックスフォード州の壮麗な大邸宅クリーブデンをファミリーホームとして購入しますが、その翌年、愛妻の早世という不幸に見舞われます。
アスターは失意のうちに建築したこのオフィスに留まる日も多く、二つの屋敷を住み分けるようになります。
このゴシックの館が、荘厳なだけでなくメランコリックな雰囲気があるのは、当時のウォルドルフの塞ぎ込んだ気分がまだ残っているからなのかもしれません。
彼は再婚することなく、1906年にクリーブデンを息子に相続させ、自分はアンブーリンが幼少期を過ごした本物のゴシックの城、ヒ―バー城に移り住み、そこで余生を過ごします。
天使の銅像をよく見てみると…
さて、それではいよいよ、この秘密の館に入ってみましょう。正面玄関に向かう階段の手前の二つの外灯柱のそれぞれに天使の銅像があります。
ネオゴシックの館に似合うクラシックな印象ですが、よく見ると、一人は電球を掲げ、もう一人は電話をかけているところです。
ゴシック・リバイバル様式を取り入れながら、当時の最先端技術を誇らしげに盛り込んでいるのは、さすがアメリカ人的な発想なのかもしれませんね。
贅を極めた大理石のホール
正面の大きな扉を開くと、大理石が敷き詰められたルネッサンス初期様式のホールに迎えられます。
床のパターンは大理石に加えて碧玉、斑岩、オニックスといった贅を極めた素材で造られているので、その上に立つのが憚られるほど。
美しい模様を活かした豪勢な大理石の暖炉にも注目してください。1階はホールの他に、アスターがオフィスと会議室として使っていた部屋がありますが、現在は展示会場とカフェになっています。
チューダーのお城のような階段で2階へ
プライベート用に使用していた2階へは、このチューダー時代のお城のような階段を上ります。
マホガニーの階段は細かい彫刻が施され、アスターが最も好きだった小説「三銃士」に登場する人物の彫像が飾られています。
2階へ辿り着くと、今度はアメリカ文学に関わる彫像と、その下にシェイクスピアのオセロ、ヘンリー八世、クレオパトラ、マクベスの登場人物を描いたフリースが迎えてくれます。この階段は文学がテーマなのですね。
ステンドグラスの天窓越しの優しい光
階段の上はステンドグラスの天窓となっていて、荘厳な階段に優しい光を投げかけています。
ゴシック特有の陰鬱感が薄いのは、中央にあるこのアトリウムの効果によるものでしょう。まるで大聖堂に居るかのようなおごそかな気持ちになります。
ステンドグラスにはこの館が完成した年である1895の数字が見えますね。
大聖堂を彷彿させるグレートホール
2階の大部分を占めるのは、その名の通り息を呑むようなグレートホールです。
アーサー王伝説に登場する9人のヒロインのレリーフに飾られた大きなドアを押してこのホールに入った者は、誰でも中世の大聖堂と同じハンマービームの高い天井、木造パネルの壁、夥しいほどの彫刻装飾に圧倒されるに違いありません。
因みに、ドアのレリーフはケンジントン公園にあるピーターパン像の製作者でもあるジョージ・フランプトンです。
パネル上部をぐるりと囲んでいるのは、歴史や小説の中の有名人物54人のポートレートのレリーフ。マリー・アントワネット、アンブーリン、コロンバス、ポカホンタスなど知っている顔を探してみるのも楽しいものです。
文学と歴史に捧げられたゴシックの館
グレートホールの中には、東と西向きに2か所、ステンドグラスがあります。東向きは日の出、西向きは日没の風景を描いています。
一方で、回廊の両端はナイチンゲールの像とアスター本人の頭像が鎮座しています。
中世のゴシック大聖堂を彷彿させる館ですが、中を飾っているのは宗教的な意味合いの薄い文学や歴史上の人物ばかりで、それがこの館に特有の雰囲気を醸成しているのでしょう。
アスターの書斎の隠しドア
グレートホールの隣には、アスターの書斎であった部屋があります。
かつては彼が収集したアンテイークの本や美術工芸品が陳列されており、「ロンドンで最も興味深い部屋」と評されていたそうです。
残念ながら、現在はそのコレクションを見る事はできませんが、部屋を囲むマホガニーのパネリングの一つが、グレートホールへ通じる隠しドアになっていているあたりに、アスターのセンスを感じる事ができます。
おわりに
ウエストエンドとシテイの境界に、やや居心地悪そうに佇むアスターのネオゴシックの館。彼のゴシックに対する情熱は、先祖がドイツからの移民であったことから来る、遠い故郷への憧憬からだったのでしょうか。
それとも、煌びやかなNYの社交界に辟易してヨーロッパに移り住んだ彼が、心地良く寛げる空間がゴシックだったからなのでしょうか。ともあれ、当時世界で一番のお金持ちと言われたアスターが、無制限の予算を費やして建築した貴重な館です。開館中にご都合が合えば、ぜひ足を向けてみてください。
入館できる期間と展示内容については、下のURLをご参照ください。
Two Temple Place
住所:2 Temple Place, London WC2R 3BD
最寄り駅:Temple (District, Circle)
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