【平和の祈りを】内戦の記録が残されているトゥールスレンの完全ガイド

カンボジア

プノンペンの中でも特に栄えている中心地に、トゥールスレンと呼ばれる観光地があります。このトゥールスレンは、ポル・ポトとポル・ポトが指揮した政党であるクメール・ルージュが支配し、わずか4年で当時の人口の三分の一にあたる200万人が死亡したと言われる悪夢の時代に強制収容所となった場所です。
この記事では、そんなトゥールスレンの見どころと、トゥールスレンにまつわるカンボジアの歴史をお伝えしていきます。

カンボジアの歴史①:クメール・ルージュが生まれる前のカンボジア

クメール・ルージュが生まれる前のカンボジアはいったいどんな姿をしていたのでしょうか。気になる方も多いと思います。そこでまずは、クメール・ルージュ以前のカンボジアをお伝えしましょう。

カンボジアは1953年11月9日にフランスから独立し、それからしばらくは、シアヌーク国王が実権を握り統治していました。そのころのカンボジアは「東洋のパリ」と呼ばれるほど街並みが美しく、他の東南アジア諸国の中でも発展していた国でした。ポル・ポト時代やその後続いた内戦を生き抜いた高齢者の方に話を聞いてみると、「シアヌークが統治していた時代が、カンボジアは一番平和で綺麗な町だった」と話す人が多いです。
そのためカンボジアでは、シアヌーク自身が亡き後も写真が額縁にかけてあったり、誕生日の日は祝日になっていたりしています。

しかし、60年代後半に入ると状況が一変。隣ではベトナム戦争が長期化し、焦ったアメリカはカンボジアでも反共キャンペーンを行いました。シアヌークは共産主義を容認していたので、アメリカは反シアヌークとして知られていたロン・ノルに白羽の矢を立てたのです。
ロン・ノルはアメリカと南ベトナムを支援を受けてクーデターを行い、シアヌークから政権を奪取しました。
しかし、ロン・ノルが行った反共政策に反発したポル・ポトを元帥とする共産勢力「クメール・ルージュ」が勢力を伸ばし、カンボジアは内戦状態となりました。

そして、1975年4月17日、クメール・ルージュがプノンペンを支配しロン・ノル政権は崩壊しました。はじめクメール・ルージュは内戦を終わらせた救世主として民衆から歓迎を受けましたが、やがてカンボジアは地獄と化していったのです。

カンボジアの歴史②:ポル・ポトが取った政策

クメール・ルージュのリーダー・ポル・ポトが取った政策とは原始共産主義と呼ばれるものでした。原始共産主義とは、簡単に言うと石器時代の世界を目指すという考え方です。石器時代には階級や格差が存在しないから、みんな平等で幸せになるだろうと、ポル・ポトは本気で考えていたのです。
しかし、石器時代の世界には病院も学校もありません。知識がある人がいれば階級が生まれ、彼らは階級の上位に立つ可能性が高いことから、原始共産制を敷いた社会からは排除しないといけないのです。そのため、ポル・ポト及びクメール・ルージュは自国に存在する知識層(教師・医師・技術者など)を次々と虐殺していったのです。

クメール・ルージュが掲げた標語には、こんなことが書かれています。

泣いてはいけない。泣くのは今の生活を嫌がっているからだ。
笑ってはいけない。笑うのは昔の生活を懐かしんでいるからだ。

ポル・ポト時代を生きたある人に話を聞いてみたことがあるのですが、自分の友人が「お腹いっぱいクイティウ(カンボジアの麺料理)を食べたい…」と呟いただけで連行され、その後処刑されてしまったそうです。

他にも、文字が読める人、メガネをかけている人、肌が白い人、苦しそうに働いている人、動きが遅い人などありとあらゆる人々が虐殺されていきました。

もちろん民衆の生活も困難を極めていました。一般市民はまともな食事にはありつけません。しかしそれでも泣き言を言ったら先述したように処刑されてしまうので、体制に反抗したとみなされるような言葉は一切口にしてはいけなかったのです。

仲間内に愚痴の一つでも言えればまだよかったのかもしれませんが、クメール・ルージュはそれすらも許しませんでした。なぜなら、クメール・ルージュは密告を奨励していたからです。万が一クメール・ルージュに対する文句を言おうものなら、誰かがクメール・ルージュに密告し、その人は処刑されてしまうのです。

また、知識がある人は「知識がないふり」を常にしなければなりませんでした。これも当時を生きた人から聞いた話なのですが、クメール・ルージュは知識人かどうかを確かめるために、わざと「国のためにこれを読んでみてくれ」と言って新聞などを渡すことがあったそうです。読めるかどうかを確かめるための抜き打ちテストですね。しかし、もし読めると判断したら連行されて処刑されてしまうのです。

ちなみに、この話をしてくれた人は当時は教師をしていました。クメール・ルージュが真っ先に処刑するターゲットだったのです。しかしその人はとっさに機転を利かせて、新聞をさかさまにしてわざと読めないふりをして難を逃れたのだと語ってくれました。

トゥールスレン(S21)について

トゥールスレンは、元々は高校だったのをクメール・ルージュが強制収容所として改修した場所で、「反革命分子」とみなされた人々がここに送られてきました。当時はトゥールスレンの存在自体が秘密になっていたため、S21という暗号で呼ばれていたそう。

トゥールスレンは秘密の存在だったため、収容している人を生きたまま解放することはありませんでした。解放した人が秘密を漏らしてしまう可能性があるからです。そのためトゥールスレンの看守たちは囚人たちに何度も拷問をし、無理やり反革命分子だと認めさせた上で処刑していきました。

3年近く強制収容所になっていたトゥールスレンでは2万人ほど収容されていたそうですが、その後生還できた人はわずか8人だと言われています。

トゥールスレン内の様子

トゥールスレン内の様子をこれからお伝えしていきます。決して楽しい場所ではありませんが、恐怖の中でもがいた人々の爪痕が今もなお色濃く残っている場所なので、しっかりと目に焼き付けておきましょう

拷問ベッド

写真を見ると、このベッドの脇には手をはめる金具と足を縛る鎖があるのが分かるかと思います。囚人たちはここで四肢を固定され、何度も鞭で打たれたり電気ショックを流されたりと拷問されました。
拷問されるとき、叫ぶとさらに追加で電気ショックが流されるという非道ぶり。「拷問は甘受して受けよ。拷問のとき叫んではならない。もし叫んだら、追加で電気ショックを加える」というトゥールスレンの掟があったのです。

そんな拷問に耐えられなくなった人々は、処刑されて楽になるために、自らベトナムやCIAなどとの繋がりをでっちあげて処刑されていきました。

水責めバケツ

これは一見するとただのバケツのようにも見えますよね。
しかし、実は中には手錠があり、バケツに水を張った状態で囚人を逆さまにして吊り上げ、バケツに上半身を沈めて拷問していたのです。

トゥールスレン内には、拷問の様子が再現された絵も展示してあります。

水責め風呂

これもぱっと見ただけでは何なのかあまりわかりませんが、これも当時トゥールスレン内で使用されていた拷問器具です。中に水を張った状態で囚人を水に浸からせ、横にある輪っかで手首を固定し、水責めを行っていました。

この写真にある絵も、拷問のときの様子を再現したものです。手だけではなく足も固定されていますね。身体を固定され身動きが取れない中で水に浸からされるというのは、想像を絶する恐怖だったことでしょう。

囚人の独房

囚人たちは、このような独房に入れられ過ごしていました。扇風機はもちろん独房内は窓もないため、風は通り抜けません。また、食事も野菜が一切れだけ浮いているお湯だけだったそう。

こんな状態の場所にずっと監禁されていたら、拷問されなくてもカンボジアの暑さでまいってしまいそうです。

こちらも囚人たちの独房です。中は足を広げて眠れないほど狭いです。また、トゥールスレン内を散策してもトイレらしき場所がなかったため、おそらく独房内で排泄していたと思われます。あまりに凄惨な環境ですね。

囚人たちのシャワー

もちろんトゥールスレン内にシャワー室なんてものはありません。囚人たちは一室に集められて外からホースで水をかけられるだけ。
収容所の中では囚人は人間扱いされず、家畜と同じような扱いを受けています。

トゥールスレンまで行く方法

トゥールスレンは市内の中心地にあるため、プノンペン市内のホテルからならどこからでも比較的楽に行くことができます

もしホテルからトゥールスレンに行く場合はトゥクトゥクを利用することになるかと思うのですが、トゥクトゥクドライバーなら誰でもトゥールスレンの場所が分かるほど有名なので、ドライバーには単純に「トゥールスレン」とだけ言えば連れていってもらえます

トゥールスレン観光の注意点

カンボジアは一年を通して暑く、トゥールスレン内は常にムシムシしています。熱中症や脱水症状になる危険性もあるので、水分補給はこまめに行うことをおすすめします

また、結構凄惨な場面を写した写真などもあるので、もし途中気分が悪くなったら無理して一気に全体を回ろうとはせず、休憩を取って気持ちを少しリフレッシュさせてから回るようにしましょう。

トゥールスレンで平和の祈りを

ポル・ポト政権が崩壊したのは1979年、この記事を執筆している2019年からわずか40年しか経っていません。しかも、カンボジアはポル・ポト政権が崩壊してからも内戦状態や混乱が続きます。
内戦が終わったのは1991年ですが、1997年に再び(一瞬ですが)内戦状態になりました。現地の人に話を聞いてみると、その当時のプノンペンでは、空を見上げるとロケット弾が飛んでいることもあったようです。

カンボジアがようやく平和になったと言えるのは2000年に入ってからなんです。

トゥールスレン内に、平和な世界が続くことを願った子どもたちの絵が何点か展示されていました
そして今わたしは、子どもたちが遊んでいる声を聞きながらこの記事を書いています。
今の子どもたちが大きくなったその時も、どうか平和なカンボジアでありますように。

トゥールスレンの基本情報

最後に、トゥールスレンの基本情報を載せておきます。

住所St 113, Phnom Penh 12304
営業時間8:00-17:00
入場料・(18歳以上):5$

・(10-17歳):3$

・(10歳未満):無料

 

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