江差町のシンボルとして紹介した「かもめ島」の眼前に、大きな帆船が停泊しています。それが、幕末から明治となる日本近代史の大きな転換点の中で重要な役割を担った、当時の旧幕府軍最強、そして日本最強の軍艦「開陽丸」の復元された姿です。箱館戦争の最中に江差沖に沈んだ開陽丸は貴重な海底遺構を展示する博物館となり、幕末好きにはたまらない歴史ロマンが詰まっています。開陽丸を紹介するとともに歴史散歩に案内しましょう。
122年ぶりに復元された幕末最強の軍艦
かもめ島を歩くと、いたる所から江差市街と開陽丸の雄姿を眺めることができます。
入館するには、「海の駅 開陽丸」の中を通りぬけます。同建物内は今年4月から江差観光案内センターも設置されたので、江差観光については同所を訪れるとわかりやすいと思います。
センター内を抜けると、開陽丸の雄姿が目の前に表れます。平成2年(1990年)にオランダに残っていた当時の設計図を基に忠実に復元され、122年ぶりにその威容がよみがえったのです。海の家から、開陽丸に入る間にも遺産が展示されています。
スクリューシャフトと上下装置で出土した遺物の中で最大のものです。船体の一部も展示されています。
開陽丸の船内は博物館となっていて、大人入場料500円、小人は250円となっています。内部はまた後程、紹介します。
激動の歴史に翻弄された運命
ペリーの黒船来航以来、諸外国の脅威に対抗するため、海軍の増強を余儀なくされた江戸幕府。安政2年(1855年)に第1次長崎海軍伝習所が開校されます。開陽丸は、文久2年(1862年)、幕府が長崎のオランダ総領事を通じて開陽丸を発注します。同年6月、発注に伴い、15名の留学生を派遣します。その中には幕府脱走軍の総司令官となる榎本釡次郎(下写真前列右端、後の榎本武揚)も含まれていました。長い航海を経て翌年4月にオランダに到着します。
オランダ貿易会社とヒップス造船所との間に契約が交わされ、8月に起工します。翌元治元年(1864年)、建造中の軍艦を「開陽丸」と名付けます。慶応元年(1865年)9月に進水式が行われ、慶応2年(1866年)8月に完成します。そして10月、海軍大尉ディーノの指揮により、榎本ほか9名の日本人留学生を乗せオランダを出航、翌慶応3年3月に横浜に到着します。しかし、日本は倒幕に大きく動いていた時代。10月に将軍・徳川慶喜は大政奉還します。榎本は軍艦頭となり、開陽丸で大阪湾の警護にあたります。翌1868年1月、鳥羽・伏見の戦いで戊辰戦争勃発。敗れた幕府軍の慶喜は開陽丸で大阪を脱出し江戸へ帰還します。
幕府の勝海舟、薩摩の西郷隆盛の間で同年4月、江戸無血開城となりますが、榎本は幕府の対応を不服とし、開陽丸ほか7隻の艦船を率いて館山沖に大挙します。しかし、勝の説得で、4隻を新政府に譲渡します。しかし、江戸での薩摩、長州の乱暴狼藉に旧幕府の抗戦派である彰義隊が薩摩藩亭を襲撃、これを機に新政府は徳川討伐の錦の御旗を得ることになります。この一連の流れは恭順の意を示していた徳川家を討伐する理由を得るための挑発行為で西郷の謀略とも言われています。
戊辰戦争や歴史の大転換点となった沈没
8月、旧幕府軍の家臣約2500名を従え、榎本率いる旧幕府軍艦隊8隻が品川沖より脱走します。もちろん旗艦は開陽丸です。目的は蝦夷地での徳川家の復興、独立でした。しかし、航海は困難を極め、咸臨丸が拿捕されるなど犠牲を強いられます。しかし、10月に仙台で会津戦争や東北各地で敗れた、土方歳三や大鳥圭介など敗残兵2800人を収容し、蝦夷地に向かい、同月、鷲の木村(現・森町)に上陸、土方歳三を中心に箱館へ進撃を開始します。榎本は11月に開陽丸にて箱館へ入港。五稜郭に入ります。しかし開陽丸はすぐさま、江差を進攻していた陸兵を援護するため江差沖に到着しますが、15日夜に暴風雪により座礁。10日後に沈没することになります。当時日本最強の軍艦はわずか2年3カ月の命でした。江差では松前藩などの抵抗はほとんどなかった状況での沈没。榎本は江差の高台からこれを眺め、言葉を失い、ぼう然としていたといいます。また、土方は松の木を叩いて号泣したという伝説が伝わっています。
旧幕府軍が、質量ともに圧倒的な新政府軍に唯一勝っていたのが海軍でした。開陽丸は当時の最新鋭の軍艦。同船を中心とした艦隊が健在であれば、新政府軍の北海道上陸はより困難を極めたと言われています。
12月に榎本は「蝦夷共和国」の樹立を宣言し、選挙により総裁に就任します。しかし、頼みの開陽丸を失った旧幕府軍に対し、新政府軍は翌明治2年(1869年)4月に蝦夷地に上陸。5月に蝦夷共和国は降伏、土方も討死します。まさに、開陽丸の沈没は歴史の大きな分岐点となったのです。たらればの話ですが、蝦夷共和国が新政府軍を退け、日本から独立しロシアなどと手を結び、そのまま存続していたら、筆者は北海道で生まれていなかったかも知れません。まさに歴史のロマンを感じます。
約3000点の遺構を展示した博物館
復元された開陽丸の内部は博物館になっています。開陽丸の歴史や、引き揚げられた遺構のうち約3000点が展示されています。
明治7年ごろまで、明治政府などによって武器や船具など多くの遺構が引き揚げられていました。その後も民間業者によって作業が行われましたが、資金や技術不足で断念されていました。しかし、昭和49年(1974年)から文化庁の指導により、海底の発掘調査が開始されました。海中遺跡の発掘の例がない日本でしたので、水中考古学としても注目されます。専門チームの調査発掘により昭和59年(1984年)までの11年間で3万2905点もの遺物が引き上げられました。
これは、防波堤の新設により、海底の砂が運び去られ砂の下に眠っていた遺物が再び姿を現したと予想されています。しかし、100年もの間、海水や塩分に浸食されていた遺物の保存作業は大変な困難を極めました。塩を抜く作業を初め、金属、木製、陶器、帯、革製、捕年などすべて保存作業が違います。当時、東京国立文化財研究所の江本義理先生の指導で地元・江差高校の小林優幸先生と化学クラブの生徒が保存処理にあたりました。
船内は入口から入った部屋が砲甲板で、大砲や砲台を展示、大砲隊の発射体験や、映像展示、開陽丸の歴史のテーマ展示があります。
とにかく、引き揚げられた展示物の多さに驚きます。砲弾から、動力源の一部や日本刀、生活用品、船具やそれぞれの機会、古文書など、よくここまで保存処理できたな、と率直に感じます。砲弾はかなりの数が展示されていて、殺傷兵器としての生々しさを感じます。
居住甲板に降りると、大量の引き上げ遺物や収蔵品が展示されています。
また、当時の軍服を着たり、ハンモックへの就寝体験などできるアイテムもあります。旧幕府軍の兵士になった気分を味わえます。
拳銃や銃弾なども展示されています。
汽笛用タンクや榴弾も大量に展示されており、船内の展示物を見ても、開陽丸が幕末当時は破格の戦力を有していたことが分かります。
また、貴重なのは作戦テーブルです。開陽丸沈没時に江差の海岸に漂着したと伝えられ、旧江差庁舎に保存されていたものです。
このテーブルで榎本武揚や土方歳三、大鳥圭介が作成会議を開いていたと想像すると感慨深い気持ちになります。
もちろん外の甲板に出ることもできます。
大きな操舵輪、迫力ある帆柱、榎本や土方はこの甲板に立って蝦夷地に何を夢見ていたのか、想像の旅に思いを馳せることができるでしょう。
目の前がかもめ島ですし、甲板からの景色も文句なしです。
とにかく歴史ロマンあふれる開陽丸。歴史好きや幕末好きの方には必見です。最後に、開陽丸海の家で見つけた、レアなグルメを紹介します。
ホッケの焼きすり身です。江差産ホッケ100%使用で、普通のかまぼこにありがちな添加物不使用ですので、魚の旨みがダイレクトに伝わってくる一品。ホッケのすり身は道南、特に江差の郷土料理で、正月によく食べられます。今はホッケが不漁なので、レアなグルメとなっています。薄切りにして刺身醤油とワサビで食べると日本酒にピッタリのお摘みです。
まとめ
まさに歴史の波に飲み込まれ、江差沖に沈没し、幕末ロマンをタップリ感じられる開陽丸。戊辰戦争の遺物がこれほど大量に残っている施設は希少だと思います。かもめ島に隣接している施設でもあるので、1日で2カ所楽しむことも十分可能です。海中遺跡という価値もあり、とにかく歴史好きの方には楽しめる施設だと思います。
▽スポット情報
開陽丸記念館
住所:北海道檜山郡江差町字姥神町1-10
TEL:0139-52-5522(一般財団法人 開陽丸青少年センター)
URL:http://www.kaiyou-maru.com/index.html
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